福岡の水城跡
しかし日本と百済の連合軍は、大国唐の加勢を受けた新羅軍の前に敗れます。
日本は半島での政治力拡大を断念したばかりでなく、玄界灘沿岸(博多、唐津周辺)の防備の必要をせまられる結果となりました。
白村江の戦いでは多くの犠牲者が出ましたが、そのほとんどは九州出身の兵士たちで、中には新羅軍の捕虜となった者もいました。
大伴部博麻もその1人。
博麻は後に愛国者として迎えられ、現在福岡県八女市にその働きを讃えた碑が残っています。
防人そのものは、大化の改新の詔にある畿内周辺の警固の役名として、すでにその名が登場していますが、自村江敗戦の翌664年、朝廷は対馬、壱岐、筑紫の各国に防人、蜂火を配置することで、確固とした役割を防人に課しました。
また、このとき筑紫に大堤を築いて貯水させ、非常時に備えています。
これは「みづき」と呼ばれ、現在も福岡県太宰府市と大野城市にまたがる「水城跡」として特別史跡の堤防が残り、防人の往時を偲ばせています。